初恋は、決して実らない。
 ――――そんな身勝手な見解でしかない戯言を一番最初に口走ったのは、いったい何処の誰だろうか。もしもその人物を特定し、見つけ出すことが出来たなら、――そこまで考えて、はひとり大きく頷く。もしもその人物を見つけられたら、首を絞めてでも撤回させてやろう。その言葉だけの所為で此処まで悩まされているのだから、それくらいしたって決して罰は当たらないはずだ。
 苦手教科である数学の授業時間。教師の説明など一切聞かず、は外を眺めていた。風景の変わり具合を堪能するでもなく、ただぼんやりと。暇を持て余すとき、は大抵こうする。例えばそれを教師が見咎めても、お構い無しに。

 好きになったのは果たしていつからで、その想いはどれほどのものだろうか。

 中学3年生、15歳の秋。は恋をしていた。それも今時の女子中学生にしては珍しい、“15歳の初恋”を。きっかけは何だったか、は恐ろしいほどはっきりと覚えている。まるで今までの人生で、“それ”しか経験をしたことが無いかのように。はっきりと。しかしは、そのことを友人の誰一人にも話してはいない。話そうものなら、『誰』『なんで』『告白しないの』と言われるに決まっていたからだ。女子中学生と言えば、ほぼ例外なく色恋沙汰の話に興味を持つ。そんな彼女たちに話すなんて、には考えられないことだった。

「――ざいぜん、ひかるくん」

 誰にも聴こえない程度の声量で、愛しい彼の名前をつぶやく。おそらく彼の友人であろう人たちに『ざいぜん』、や、『ひかる』と呼ばれていたのを耳にしただけなので、どんな字でそう読むのかは知らない。ただ、『ひかる』が『光』であれば良いとは思った。そうだったら素敵だ。『光』くんに恋をしたのなら、自分はそれを追いかける。―――『光』を追いかけるみたいで、素敵。
 同じ学年に、彼と同じ名前の人物は居なかった。つまり、彼は後輩なのだろう。1年生か2年生か。それはにとっては甚だ如何でも良いことだった。後輩だろうと何だろうと、好きなものは好きなのだ。実らないと言われている『初恋』だろうと、わたしは彼を好きになった。大切なのは、その事実だけだった。



primo amore



「アカン!むっちゃだるい!体鈍ってまうわこないな作業ッ!」

 教室でさえ薄暗くなり始めた、放課後。担任に日直だからと頼まれた作業をしていたに、疲れ果てた様子で声を掛けたのは同じクラスの忍足謙也だった。彼もと同様に日直であり、と全く同じ作業をしている。ただそのスピードがのそれより数倍遅いのは気の所為ではない。何処が『浪速のスピードエース』なのよ、とが毒づく。忍足はうっと一瞬怯んだが、「テニスと一緒にすんなや!」とすぐに開き直る。切り替えの速い人間とは彼のような人間を指すのだろう。

「だいたい、担任がこんなん任せるんが悪いんや!なんで俺やねん!」
「なんでって、謙也が日直だからじゃ――」
「んなこと分かっとるわ!」

 だったら言うな。一体、何度同じことを繰り返せば彼は納得するのだろう。大きな溜息を吐いて、再び作業に専念する。彼は決して馬鹿ではないと想っていたが―――阿呆の相手をするのも、時間の無駄である。
 ぶうたれる忍足を視界に入れながら、は黙々とペンを走らせた。担任に頼まれたのは、夏休みに行われた補習授業に参加した人数と、それが誰であるか。更には何パーセントの生徒が来ていたかを集計しろと言うこと。こんな雑用を押し付けられたのは、久しぶりだ。こんな大量の雑用を押し付けられれば、忍足でなくとも文句のひとつ言いたくなるだろう。

「…なんでは黙々と書けるねん、俺のと同じ作業やろ、それ」
「謙也のと同じだけど、謙也より数はこなしてるよ」

 ほぼ白紙に近い忍足の紙を指差し、が言う。反論のしようもなく、忍足は「おおー」と尊敬の意を籠めた声を漏らす。凄いやん、とを褒めるが、その言葉に「そんなに出来るんやったら俺んもやってやー」と言う下心が含まれているのをは知っている。本当は手伝っても良かったのだが、下心丸出しの言葉があまりに気に喰わなくて、はそうすることを止めた。
 きっと彼だったら、とひとり考える。―――彼、『ひかるくん』だったら、人に頼むことなく自分でテキパキとやってしまうのだろう、と。たった一度しか見たことはなかったが、そんな印象を強く受けた。そしてその印象を、は好意的に見、『初恋』まで発展したのだ。ピンときた。一目惚れと言うのだろう、とは考える。たった一度しか姿を見たことがないのに恋をした。それはつまり、世間一般で言う『ひとめぼれ』。まさか、自分がそんな恋をするとは思ってもいなかったが。

「こんなん俺には出来んわー。諦めなアカーン」

 ぷっつん

 文句ばかり言って作業に集中しない忍足。そんな彼を見て、―――の苛立ちが、限界に達した。
 盛大な溜め息を吐いた後、力いっぱい机を叩いて立ち上がる。驚いて目を見開く忍足にぐいっと顔を近付け、たった一言。「うるさい」――低く、ドスの効いた声で言う。普段の声が高い分、効果は覿面のようだ。

「文句ばっかり言ってないでやるの!帰れなくても良いの!?」
「それはアカン!俺、今日デートの約束しとったんやで!?」

 必死になって言う忍足の言葉に、はぴくりと反応する。聞き慣れない言葉が耳に入り、疑問符を浮かべる。――否、言葉自体は大して変わったものじゃない。ただ、それを言ったのが忍足謙也だから違和感を覚えたのだ。『デート』、と。これまで彼女が出来たなどの噂が一切流れていない友人からの思わぬ発言に、は目を瞬かせ、冷静な口調で問いかけた。

「謙也って、彼女いたっけ?噂流れてないよね?」
「ん?あー…。ちゃうよ、部活の後輩との話。ゲーセン行こやー、って話しとったんや」
「ゲーセン…」
「…あ!せや、その後輩呼んだらもっと早よ終わるやん!名案や、あいつ仕事速いし!」
「―――…は、」

 後輩に仕事手伝わせる気なの、とが反論するよりも先に、忍足は素早く携帯を操作し電話を掛け始めた。耳に当ててOKサインを出している彼から携帯を無理やり奪うのは、あまりにも忍びない。―――仕方ない。後輩が来たら、作業はせずに、謙也のことだけ待っててもらおう。そう心に決めたとき、電話が繋がったのか、忍足が明るく「お!やっと出たんか〜」と言った。特別聞きたかったわけではないが、聞こえるので盗み聞きのようになってしまう。耳を塞ぐべきかと考えたところで、ずっと聞きたかった『名前』が聞こえ、反応した。

「堪忍やって!ホンマ頼むわ、光ッ!」

 ――――『ひかる』?

 まさか、と思いつつも反応してしまう。ひかる。確かに忍足は、そう言った。先程話していた『後輩』で、名前を『ひかる』と言うらしい。たったそれだけの一致なのに、は必要以上に反応した。もしかしたら、と言う小さな可能性に、賭けたくなったのだ。耳を欹てずとも聞こえる会話を、ひとつ一つ拾っていく。設定受話音量が大きいのか、向こうの声が大きいのか、それとも教室内が静かだからか。受話器の奥からノイズ雑じりの声が聞こえた。

「ホンマちょっとでエエんや!手伝うてくれたら今日奢るわ!」
『今日て、行くんゲーセンやないっスか。俺クレーンゲーム先輩より巧いんやから、そない金使いませんわ』
「やったら、明日の昼飯奢ったるから…!」
『オカンが作った飯で充分っスわ。――せや、俺アレが食いたいっスわあ。
「に、く、っておまえ…!!」
『…ま、俺も鬼とちゃいますから。しゃあないからケンタの990円パックでエエっスよ』
「ケンタ…!?たかが手伝うだけでケンタなんか!?おまえ先輩を何やと――!」

「うるさいっスわあ、先輩」

 ガラッ。静かな音と共に、ひとりの男の子の声。
 は驚きと曖昧な期待を胸に、声の主へ視線を向ける。――― 一番に目に付いたのは、黒い髪。次におそらくテニスラケットが入っているのだろう大きな鞄が目に入り、そして漸く顔を見ることが出来た。かお。見覚えのある、かんばせ。このひとだ、とピンと来たときにはもう、口が動いていた。

「ざいぜん、ひかる、くん…?」

 どんな漢字なのだろう。未だにはっきりしない名前を、独り言と同じ調子で口にする。忍足へ視線を向けていた“彼”が言葉と声に反応して、へと視線を移す。首さえ傾げなかったが、その表情は明らかに『あんた誰』と言っていて、は僅かに傷付いた。覚えているわけがないと分かっていたのに、――曖昧な期待が、胸を過ぎった所為だ。しても仕方がない期待なんて、最初からしなければ良かった。『ひかるくん』とは、たったの一度しか会ったことがないのだから。
 の異様な空気を感じ取ったのか、忍足が不思議そうに「?どないしたん?」と声を掛ける。はそっと首を振り、何でもないと呟いた。何でもない、大したことではないのだ。こんなことで傷付くなんて、筋違いだ。

「――謙也先輩、独りとちゃいますやん」

 を見て、彼が言う。怪訝そうに自分を見る視線が痛くて、は思わず俯いた。俯いてから後悔する。――泣きそうだ、この体勢。
 俯いてギリギリ視界に入ったところへ、忍足の携帯画面が映る。電話帳が開かれていて、そこにあるひとつの名前でピタリと動きが止まる。――『財前光』、くん。読みは間違いなく『ざいぜんひかる』であろうこの名前。やっと漢字が分かったという喜びよりも、知ってしまったと言う不安の方が大きくなった。

「んあ?ゆうてへんかったっけ?日直、2人おるんやけど、」
「聞いとりません。第一、2人おるんやったら、俺に頼むこと無いんとちゃいます?」
「アカンねん!俺“こーゆー作業”めっちゃ苦手やねん!光、字書くん得意やろ!?頼むわ!」
「ひとりなら手伝ったってもエエかなって思うただけですやん」

「先輩がおるんやったら、明らかに俺の出る幕とちゃいますやんか」

 ―――え。
 思わず、間の抜けた声が出る。――――ひかるくん、いま、なんて言った?『財前光』くん、が、わたしの名前を呼んだ気がした。思いがけない展開に数回目を瞬かせると、それに気付いた彼、『光』くんが決まり悪そうに「…何っスかあ、先輩」とまたの名前を呼んだ。今の今まで知り合いではなかったのだから、知るはずも無い、名前。どうしてそれを知っているんだろう、とは疑問に思い小さく声に出した。「ど、どう、して…?」思いの外、訝しむような声色になってしまったことが自分の中で引っ掛かる。

「わ、わたしの名前、―――」
「…知っとりますよ。謙也先輩と同じクラスの、先輩」
「な、なん、で、…」
「それ、ホンマにゆわんと分かりません?――鈍過ぎっスわあ、先輩」

 呆れたように肩を竦めながら、実は初めてお目にかかる彼の笑顔が、目の前に広がった。「…は?え、何やこの展開!?俺めっちゃ邪魔やん!」――謙也の声が、遠い。代わりに、ひかるくんの声が、やたらと近くに感じた。実際は、謙也との距離とそう変わらないと言うのに。

「先輩、俺とちょお前に会うとりますよね。確か春頃、テニスコートの近くで」
「――! 覚えて、」
「覚えとりますわ。そん時から気になっとったんですから。――先輩、」

 ひとめぼれや、ゆうたら、笑います?

「…わ…、わらわ、ない 」
「コレゆうたら、流石に笑うんとちゃいますか?――俺の初恋、先輩なんっスわあ」
「…っ!わらわなっ、…ちが、わたし、笑えない!」

 だってわたしもそうだったから。―――そう言えば、彼はどんな反応を示すのだろうか?
 「…おーい、おまえら俺んこと忘れとらんー?」割って入る忍足に2人して一瞥をくれ、向かい合わせてから笑った。お互いをお互いに『馬鹿みたいだ』と思った。――この年で『初恋』?しかも、『一目惚れ』?――――なんて馬鹿馬鹿しい。これは浅はかな恋かもしれない、と2人は思っていた。思っていて、しかし口には出さない。浅はかだろうと馬鹿馬鹿しかろうと構わない、と強く思ったからだ。

「“あれ”、嘘やったみたいっスわあ」

 初恋は、決して実らない。
 ―――この言葉を一番最初に口にした人へ。わたしと彼は、当て嵌まらなかった。この言葉を覆し、いま、こうして両想いへと発展した。果たしてこれは奇跡なのだろうか。実らないと世間一般で言われるものを、実らせてしまった。キセキ。奇跡のような恋を、今しているのだろうか。――それは違う、とは思った。この結末は決して奇跡なんかじゃないと。ある種、当たり前の結果だったのだろう。
 タイミングが合致し、惹かれあったふたり。そんな2人が結ばれずして、他の誰らが結ばれると言うのだろうか。
 まったく、甚だ馬鹿馬鹿しい。―――は思う。 ただ、世間一般に知れ渡っているだけの、馬鹿馬鹿しい戯言。そんな戯言よりも何倍も何倍も、馬鹿馬鹿しく思えたのだ。それを半ば信じてしまっていた、自分のことが。

 ―――嗚呼、わたしはなんて素晴らしく馬鹿馬鹿しい恋をしてしまったのだろうか。


2style.net